宵に上った月を、一人仰ぎ見る男が呟いた。
「闇に迷いし影よ。この力に応え、我が元へ下れ──」
眠れる摩天楼と男のシルエットが、月光に象られる。
その無機質に近い宵闇を、動く気配がする。
ヒタヒタと湿り気を含む音や、濁流が湧き上がるような音、泥を踏み鳴らす音、なにより恨み言満載といったうめくような数々の声《おと》──。
確実に奴らは数を揃え、男のもとへと集まって来ていた。
頃合を見て、男は月輪の中に立ち上がる。
今時珍しくもない、音楽でもない、単調に鳴り響く呼び出し音。
カーテンの隙間から差し込む朝日。
薄暗い部屋の片隅で、小さく赤い光が明滅する。
羽布団が擦れ、起き上がる者がいた。
前髪をわずかに掻き上げ、男はまだ鳴り響いていた携帯電話に手を伸ばした。
「……はい」
『昨夜はお疲れ様』
「分かっているなら、起こさないでもらえるかな?」
涼やかに彼は言う。その手がカーテンを開いた。
『あら。今日はデートの約束よ?』
「デート、ね……」
『そうでしょう?』
「まあ……傍から見れば?」
電話の相手は軽く笑う。
『じゃあいつものところで』
「いつものところで」
通話を切って、観念したように支度を始めた。
冴えた眼が、玄関の姿見を覗く頃には、不敵で醜悪な笑みを張り付けていた。
ドアノブに手を掛け、ツリガネ草のような帽子を被る。
脇にはキャリーケースがひとつ。眼には丸いサングラス。それでなくとも隠すように帽子が深く被られ、容姿といったらダボダボのシャツに擦り切れだらけのズボンと、態度も仕草も誰もが見ても“不審者”と太鼓判を押すだろう風体。
“円茶亀”はそうして作られている仮面だった。昨今ならキャラクターで
「可」だろう。
こうして彼は徹夜明けの巣を出て行った。
なじみの、女子高生やOLに特に人気の、通りに面したカフェのガラス越しのいつもの席に、一人の見慣れた女子高生が座っている。
「やあ! 待たせちゃったかな、お嬢ちゃん!」
「そのハイなの、どーにかしたら?」
「相変わらず、お元気なこって」
勝ち気な目許をたたえて、頬を膨らます愛らしい少女。
おどけた様子を忘れないよう、不敵で小憎らしい仮面をうっかり落とさないよう、そつなく素っ気ない返答を返した。
もってきたキャリーケースはプラスチック製の、学生用の鍵無し仕様だ。開けた中から数枚の紙の束を少女に渡す。
表紙代わりの一番上の紙には、何も《特別》に書かれたものはなかった。ただ独特の書体で一筆ある。
『件、誅スルニ値シ影也』
これが、誅書と呼ばれる依頼書を兼ねた式の“影”の記録書である。
式家、という「式」を姓に持つ家柄があった。
連なるは一式家・二式家・三式家・四式家・五式家の五つ。式の家には代々受け継ぐ“力”があり、時代時代と現世《うつせみ》に生まれ出、人を惑わす“影”と呼ばれる存在を脈々と葬り去って来た。
そのひとつ、一式家の力を受け継ぐ若者こそ、この目の前に座る高校生の少女である。
彼らはその力かその姓からか、“式師”と呼ばれる。
そんな彼女を丸いサングラス越し、深く被った帽子を掻い潜り見る眼だけは、彼女を愛おしんでいた。
「ただの誅書……ね」
「ま、お姫さんの力なら軽い軽い」
「特徴は?」
「書いてある通りさ。特筆すべき情報はナッシング」
わざとらしさをわざと作り両手を広げる。もちろんうさん臭い笑いも張り付けまま。
彼女にはもちろん、“うさん臭いおっさん”として見えているだろう。
必死に自分を押し殺しながら、“円茶亀”という男を演じる。
ひとときでも、たとえ別人としてであっても、“丸崎緯仰《まるさきいこう》”という男にとってはとてもとても、大切な時間だった。
そう──押し殺し演じる中で唯一、彼女を見る眼に込められる意味だけが嘘をつけなかった。
別れ際の最後の一瞬まで、おどけ不敵に笑う“円茶亀”を被ったまま、その眼で彼女を見つめていた。
朝出たままの部屋に帰り着いたはずだったが、状況は一変していた。
「帰らなかったのね」
「だから起こさないで欲しかったんだけど?」
部屋の片隅に無造作に置かれたデスクで、一人の女がパソコンに向かっていた。
「よかったじゃない。大事な大事な女の子とのデートに寝坊しなくて」
「6時に起こされて寝坊とはね」
呆れ笑う緯仰を、彼女は背中で笑った。
何気のない恋人同士の逢瀬のようだが、二人の関係はそれには当てはまらない。
「どう? 元気そうにしてた?」
「ああ」
「早く会いたいけどなあ……」
「それは俺の科白だよ、暮《くれ》。まあ円茶亀という人格も気にいってはいるけれど」
「まだ、ダメなのね?」
「そうだ」
彼はきっぱりと言い切る。
今度は暮という女性が呆れ笑いをする番だった。
緯仰はまた紙束をテーブルに広げる。
「また数が増えた。昨日はこれだけ、その前、つまり半月前はこのくらい」
「二週間の短期間でそれは多いわね。こっちは鞠ちゃんからの報告書よ。今朝届いたわ」
「少しずつ増えて来ていたのは把握していたが、あまりにな」
端整な顔の、眉間が歪む。
「依頼も徐々にね。始めてから最高じゃないかしら。予想通りね」
「その言い方は確かじゃないし、嫌いだ」
「……予測とも違うし他に言い様がある?」
「まあな」
頬杖に顔を落ち着かせた彼の眼は、遠くを見ていた。
幼い頃から、緯仰は特別な夢を見ることが多かった。
それははっきりしたものではなく、未来予知というよりはむしろこれから起こることへのインスピレーションのようなものだった。
多少勘の鋭い子どもといった程度で済まなくなったのは、八歳になる年。その春に始まったある夢だった。
体を滴が打つように痛く、目の前は水面のようにおおらかに屈折していた。
そこには黒い壁が立ちはだかっていた。壁は錆びて粟だった鉄のようで、感触はとても不快だった。
なめらかに滑るようで、ヌメヌメと手を捕らえる。次第に手が飲み込まれ、振り払おうが蔓のように絡み放さない。
あのまま起こるに任せていたらどうなったのだろうか。
あれは恐怖というのだろうと、後に緯仰は言う。
今なら、あれが何か解る──。
しかし八つという歳の小さな少年だった緯仰には、堪え難い苦痛だった。
毎晩ではなかったが、眠っていても覚めていてもその苦痛だけは続いた。
季節が夏へと変わった頃、いよいよこれは放っておけなくなった両親は、緯仰をある家に預けた。
それは一式家の真夜の父親、判鳴のもとだった。
さざめく竹林が陽のの光を掠める。
どこかで泣く赤ん坊の声に、会ってみたいなと思えるほどの落ち着きを取り戻したのは、一式の家に通い始めてまた季節が変わろうとする頃だった。
「真夜って言うの。可愛いでしょ?」
髪の毛は父親似、顔は母親似の女の子は、目を大きく開いてこちらを見ていた。
その目で自分を見てくれることが、いつしか緯仰にとっては心地よいものとなっていた。
それがさらに自分だけのものにしたいと、そんな感情が心に巣くうようになったのはいつのことだっただろうか。
彼女はもう赤ん坊ではない。ましてや、あの時泣いて泣いて、抱きすがっていた女の子でもない。
緯仰の心には、前をまっすぐに見ている少女が、ただいた。
ビルの壁を伝ってくる上昇気流が、耳元で鳴る。
見ていた者がいたとすれば、息を飲んだだろう。もしかしたら、心臓の止まる人間もいるかもしれない。
男は仄明るい月の下で、何もない空間に足を降ろす。体はそのままビルの谷間に真っ逆様に落ち込んでゆく。
風と一体になろうとする体を、したたか器用に捻り、通り過ぎていたビルの壁面に足を突き出す。
向きが変わりまた次に迫っていたビルの壁も、同じように蹴る。脚力もあるが、この尋常ならぬ神技はその“力”を御すゆえに為せることだった。
そうして幾度か摩天楼の林間を渡り、広い公園のど真ん中に立つ時計に足をつく。
「今夜も満員御礼……というところか」
広げられた両手から、滲み立ち上ぼる力のオーラ。
「そうだ……来い。ここなら今日は大丈夫だ。黄泉に拒まれたもの達よ。その体、その魂、闇に還す」
両の掌が天に上げられ、彼を包むオーラがそこに集まり球体をつくる。
片の手を影に向ける。両手を交互に振り払うごとに、影の体が散らされる。
まるで塵芥で出来ていたように、次々と風に消え去られていく。
抵抗も彼には届かない。
いくら追いすがろうとしても、目の前で跳ね返されそのまま散らされる。
たとえ一面が黒の海と化しても、あまり時を待たずして大体が片付いた。
それでも最後まで動じずに、ただ待ち残るものが星付であり、朱だ。
「待ちわびたよ。……君はどんな力を見せてくれるんだい?」
影は嗤う。
「シキシ カ」
「脇固めだけどね。一応は。それより始めようか、斥候さん?」
言うが早いか手が早いか、周囲の空気が水晶の中のように包まれる。
隙を与える筋合いはない。
同じように、その筋肉質に見える体を覆う鉱石から逃れようとするが上手くいかない。
「それは特製の枷でね。まさかここまであっさり封じれるとは思わなかったが」
目を閉じ手が影に向けられる。辺りからにじにじと伝わるものある。それは彼と接する箇所から伝ってきていた。
「力も見せずに終わりとは。あまりに弱すぎるのじゃないのか?」
影はもう答えない。
「貴様らの主に伝えろ」
──……
影には読み取れたのかどうかは分からない。
押さえるように添えられていた左手がもう片方を離れる。瞳が射るように影を捕らえる。
「──消えろ」
悲鳴をあげる暇も与えてやらずに、緯仰は滲み出ていたオーラをそのまま影にぶつけた。
チカという光は見えても、第三者からは誰もが騒ぐような爆音は聞こえなかっただろう。
あとには広い公園の直中に青年が一人、ぽつりと立つだけであった。
「是謳」
風が起こり、空気を揺らす。
人の男と変わらぬ背丈の分身が、目の前に立ち現れる。
「これを、一式に」
恭しく受け取ると、分身はまた風とともに消えた。
……続く
「闇に迷いし影よ。この力に応え、我が元へ下れ──」
眠れる摩天楼と男のシルエットが、月光に象られる。
その無機質に近い宵闇を、動く気配がする。
ヒタヒタと湿り気を含む音や、濁流が湧き上がるような音、泥を踏み鳴らす音、なにより恨み言満載といったうめくような数々の声《おと》──。
確実に奴らは数を揃え、男のもとへと集まって来ていた。
頃合を見て、男は月輪の中に立ち上がる。
今時珍しくもない、音楽でもない、単調に鳴り響く呼び出し音。
カーテンの隙間から差し込む朝日。
薄暗い部屋の片隅で、小さく赤い光が明滅する。
羽布団が擦れ、起き上がる者がいた。
前髪をわずかに掻き上げ、男はまだ鳴り響いていた携帯電話に手を伸ばした。
「……はい」
『昨夜はお疲れ様』
「分かっているなら、起こさないでもらえるかな?」
涼やかに彼は言う。その手がカーテンを開いた。
『あら。今日はデートの約束よ?』
「デート、ね……」
『そうでしょう?』
「まあ……傍から見れば?」
電話の相手は軽く笑う。
『じゃあいつものところで』
「いつものところで」
通話を切って、観念したように支度を始めた。
冴えた眼が、玄関の姿見を覗く頃には、不敵で醜悪な笑みを張り付けていた。
ドアノブに手を掛け、ツリガネ草のような帽子を被る。
脇にはキャリーケースがひとつ。眼には丸いサングラス。それでなくとも隠すように帽子が深く被られ、容姿といったらダボダボのシャツに擦り切れだらけのズボンと、態度も仕草も誰もが見ても“不審者”と太鼓判を押すだろう風体。
“円茶亀”はそうして作られている仮面だった。昨今ならキャラクターで
「可」だろう。
こうして彼は徹夜明けの巣を出て行った。
なじみの、女子高生やOLに特に人気の、通りに面したカフェのガラス越しのいつもの席に、一人の見慣れた女子高生が座っている。
「やあ! 待たせちゃったかな、お嬢ちゃん!」
「そのハイなの、どーにかしたら?」
「相変わらず、お元気なこって」
勝ち気な目許をたたえて、頬を膨らます愛らしい少女。
おどけた様子を忘れないよう、不敵で小憎らしい仮面をうっかり落とさないよう、そつなく素っ気ない返答を返した。
もってきたキャリーケースはプラスチック製の、学生用の鍵無し仕様だ。開けた中から数枚の紙の束を少女に渡す。
表紙代わりの一番上の紙には、何も《特別》に書かれたものはなかった。ただ独特の書体で一筆ある。
『件、誅スルニ値シ影也』
これが、誅書と呼ばれる依頼書を兼ねた式の“影”の記録書である。
式家、という「式」を姓に持つ家柄があった。
連なるは一式家・二式家・三式家・四式家・五式家の五つ。式の家には代々受け継ぐ“力”があり、時代時代と現世《うつせみ》に生まれ出、人を惑わす“影”と呼ばれる存在を脈々と葬り去って来た。
そのひとつ、一式家の力を受け継ぐ若者こそ、この目の前に座る高校生の少女である。
彼らはその力かその姓からか、“式師”と呼ばれる。
そんな彼女を丸いサングラス越し、深く被った帽子を掻い潜り見る眼だけは、彼女を愛おしんでいた。
「ただの誅書……ね」
「ま、お姫さんの力なら軽い軽い」
「特徴は?」
「書いてある通りさ。特筆すべき情報はナッシング」
わざとらしさをわざと作り両手を広げる。もちろんうさん臭い笑いも張り付けまま。
彼女にはもちろん、“うさん臭いおっさん”として見えているだろう。
必死に自分を押し殺しながら、“円茶亀”という男を演じる。
ひとときでも、たとえ別人としてであっても、“丸崎緯仰《まるさきいこう》”という男にとってはとてもとても、大切な時間だった。
そう──押し殺し演じる中で唯一、彼女を見る眼に込められる意味だけが嘘をつけなかった。
別れ際の最後の一瞬まで、おどけ不敵に笑う“円茶亀”を被ったまま、その眼で彼女を見つめていた。
朝出たままの部屋に帰り着いたはずだったが、状況は一変していた。
「帰らなかったのね」
「だから起こさないで欲しかったんだけど?」
部屋の片隅に無造作に置かれたデスクで、一人の女がパソコンに向かっていた。
「よかったじゃない。大事な大事な女の子とのデートに寝坊しなくて」
「6時に起こされて寝坊とはね」
呆れ笑う緯仰を、彼女は背中で笑った。
何気のない恋人同士の逢瀬のようだが、二人の関係はそれには当てはまらない。
「どう? 元気そうにしてた?」
「ああ」
「早く会いたいけどなあ……」
「それは俺の科白だよ、暮《くれ》。まあ円茶亀という人格も気にいってはいるけれど」
「まだ、ダメなのね?」
「そうだ」
彼はきっぱりと言い切る。
今度は暮という女性が呆れ笑いをする番だった。
緯仰はまた紙束をテーブルに広げる。
「また数が増えた。昨日はこれだけ、その前、つまり半月前はこのくらい」
「二週間の短期間でそれは多いわね。こっちは鞠ちゃんからの報告書よ。今朝届いたわ」
「少しずつ増えて来ていたのは把握していたが、あまりにな」
端整な顔の、眉間が歪む。
「依頼も徐々にね。始めてから最高じゃないかしら。予想通りね」
「その言い方は確かじゃないし、嫌いだ」
「……予測とも違うし他に言い様がある?」
「まあな」
頬杖に顔を落ち着かせた彼の眼は、遠くを見ていた。
幼い頃から、緯仰は特別な夢を見ることが多かった。
それははっきりしたものではなく、未来予知というよりはむしろこれから起こることへのインスピレーションのようなものだった。
多少勘の鋭い子どもといった程度で済まなくなったのは、八歳になる年。その春に始まったある夢だった。
体を滴が打つように痛く、目の前は水面のようにおおらかに屈折していた。
そこには黒い壁が立ちはだかっていた。壁は錆びて粟だった鉄のようで、感触はとても不快だった。
なめらかに滑るようで、ヌメヌメと手を捕らえる。次第に手が飲み込まれ、振り払おうが蔓のように絡み放さない。
あのまま起こるに任せていたらどうなったのだろうか。
あれは恐怖というのだろうと、後に緯仰は言う。
今なら、あれが何か解る──。
しかし八つという歳の小さな少年だった緯仰には、堪え難い苦痛だった。
毎晩ではなかったが、眠っていても覚めていてもその苦痛だけは続いた。
季節が夏へと変わった頃、いよいよこれは放っておけなくなった両親は、緯仰をある家に預けた。
それは一式家の真夜の父親、判鳴のもとだった。
さざめく竹林が陽のの光を掠める。
どこかで泣く赤ん坊の声に、会ってみたいなと思えるほどの落ち着きを取り戻したのは、一式の家に通い始めてまた季節が変わろうとする頃だった。
「真夜って言うの。可愛いでしょ?」
髪の毛は父親似、顔は母親似の女の子は、目を大きく開いてこちらを見ていた。
その目で自分を見てくれることが、いつしか緯仰にとっては心地よいものとなっていた。
それがさらに自分だけのものにしたいと、そんな感情が心に巣くうようになったのはいつのことだっただろうか。
彼女はもう赤ん坊ではない。ましてや、あの時泣いて泣いて、抱きすがっていた女の子でもない。
緯仰の心には、前をまっすぐに見ている少女が、ただいた。
ビルの壁を伝ってくる上昇気流が、耳元で鳴る。
見ていた者がいたとすれば、息を飲んだだろう。もしかしたら、心臓の止まる人間もいるかもしれない。
男は仄明るい月の下で、何もない空間に足を降ろす。体はそのままビルの谷間に真っ逆様に落ち込んでゆく。
風と一体になろうとする体を、したたか器用に捻り、通り過ぎていたビルの壁面に足を突き出す。
向きが変わりまた次に迫っていたビルの壁も、同じように蹴る。脚力もあるが、この尋常ならぬ神技はその“力”を御すゆえに為せることだった。
そうして幾度か摩天楼の林間を渡り、広い公園のど真ん中に立つ時計に足をつく。
「今夜も満員御礼……というところか」
広げられた両手から、滲み立ち上ぼる力のオーラ。
「そうだ……来い。ここなら今日は大丈夫だ。黄泉に拒まれたもの達よ。その体、その魂、闇に還す」
両の掌が天に上げられ、彼を包むオーラがそこに集まり球体をつくる。
片の手を影に向ける。両手を交互に振り払うごとに、影の体が散らされる。
まるで塵芥で出来ていたように、次々と風に消え去られていく。
抵抗も彼には届かない。
いくら追いすがろうとしても、目の前で跳ね返されそのまま散らされる。
たとえ一面が黒の海と化しても、あまり時を待たずして大体が片付いた。
それでも最後まで動じずに、ただ待ち残るものが星付であり、朱だ。
「待ちわびたよ。……君はどんな力を見せてくれるんだい?」
影は嗤う。
「シキシ カ」
「脇固めだけどね。一応は。それより始めようか、斥候さん?」
言うが早いか手が早いか、周囲の空気が水晶の中のように包まれる。
隙を与える筋合いはない。
同じように、その筋肉質に見える体を覆う鉱石から逃れようとするが上手くいかない。
「それは特製の枷でね。まさかここまであっさり封じれるとは思わなかったが」
目を閉じ手が影に向けられる。辺りからにじにじと伝わるものある。それは彼と接する箇所から伝ってきていた。
「力も見せずに終わりとは。あまりに弱すぎるのじゃないのか?」
影はもう答えない。
「貴様らの主に伝えろ」
──……
影には読み取れたのかどうかは分からない。
押さえるように添えられていた左手がもう片方を離れる。瞳が射るように影を捕らえる。
「──消えろ」
悲鳴をあげる暇も与えてやらずに、緯仰は滲み出ていたオーラをそのまま影にぶつけた。
チカという光は見えても、第三者からは誰もが騒ぐような爆音は聞こえなかっただろう。
あとには広い公園の直中に青年が一人、ぽつりと立つだけであった。
「是謳」
風が起こり、空気を揺らす。
人の男と変わらぬ背丈の分身が、目の前に立ち現れる。
「これを、一式に」
恭しく受け取ると、分身はまた風とともに消えた。
……続く